卒園生だより

卒園生からのメッセージ

22歳になる、こども園の卒園生が在園の保護者向けにご自分の人生を振り返って話をしてくださいました。その原稿をご本人の了解を得て原文のまま紹介させていただきます。

「私の人生」

ペンネーム ひよこ


誕生

 私は、生まれた時から色んな人にお世話になりました。私のこれまでの人生をありのままに話をします。私は1991年平成3年9月30日17時52分に関西医大病院で二卵性の双生児の長女として生まれました。産まれてすぐに私はNICU(新生児特定集中治療室)に運ばれました。予定より早く産まれてしまいました。切迫早産です。帝王切開で産まれました。予定日は12月9日だったので、3か月も早く産まれてしまいました。なので、3か月間保育器の中で過ごしました。生まれたときの体重は960g身長は33.1㎝だったので、超未熟児でした。

 

幼児期

 3歳の頃に初めて療育手帳を取得しました。その頃、障害に気が付いていたかもしれません。その頃に障害が分かりました。3歳の頃から小学6年まで都島区の医療センターの中にある言語科で言語教室に通っていました。3歳から2年間、都島こども園で(ぶどうぐみ・いちごぐみ)お世話になりました。その頃は背が低く、大人しくて人見知りをしてたそうです。その後は、隣の都島東保育園(みどりぐみ・そらぐみ)で2年間お世話になりました。たくさんの友達と先生に巡り合いました。4年間、母親と妹と通う所が別々だったので、辛かったし寂しかったです。

 

小学校

 地域の小学校に6年間通っていました。6年間、色んなことがありました。6年間国語、算数の時間になると特別支援学級で受けていました。それ以外の科目は通常学級で受けていました。小学校5年の三学期に学年の男女からいじめを受けました。色んな事されました。(例えば、後ろからランドセルごと突き飛ばされた事、暴言をうけました。小学2年から始まってたらしいですが、はっきり覚えていません)そのせいで、不登校を考えたこともあります。いじめがあって毎日母親が小学校の前で妹のスクールバスを待ちながら私を迎えに来てくれました。放課後はいきいき活動にも6年間通っていました。6年生の時に1番仲良しだった友達とグループになって一緒に慣れたのがとっても嬉しかった事です。小学校生活は、色んな事があったけど、みんなと一緒に楽しい思い出をたくさん作れたのがよかったです。

 

中学校

 地域の中学校に三年間通っていました。三年間色んな事がありました。数学、英語の時間になると、特別支援学級で受けていました。それ以外の科目は通常学級で受けていました。中学校でもいじめがありました。特別支援学級では、中学2年生までは平和でした。中学3年生になって居場所さえなくなりました。放課後になるとよく保健室にいっていました。学年の先生は、よくしてくれました。居場所がなくなった理由は、毎学期ごとに特別支援学級の先生が変わってしまったからです。中学3年生の三学期になって特別支援学級を辞めました。籍は残したままです。学校行事は、あんまり楽しくなかったです。仲良しだった友達とクラスが一緒になれませんでした。中学2年生になって初めて小学校時に一番仲良しだった友達と一緒のクラスになりました。中学校生活は、小学校生活と違ってしんどかったことが多かったです。良かった事は小学校、中学校は自分で決めた進路なので、みんなと一緒に通えた事がよかったです。

 

高校(特別支援学校)

 思斉特別支援学校に三年間通っていました。三年間色んな事があったけど素敵な思いでがたくさん心に残っています。私にとって思斉特別支援学校は、暖かい素敵な学校です。その理由は、学年の先生がよくしてくれたからです。優しく時には厳しく接してもらったからです。悩んでいることなどがあっても卒業した今も聞いてくれます。思斉特別支援学校の先生は良い先生が多いです。初めて心から信頼ができる先生に巡り合えた事です。ある先生に出会ったおかげで今まで苦手だった運動が好きになりました。朝は男子と一緒に屋上で筋トレして放課後はバスケットボールクラブに入りました。学年の先生が何人かいたので安心でした。最初の年、試合の時も練習中も全然シュートが入らなくて学年の先生が応援してくれました。二年生になって試合の時、練習中も少しずつシュートが入るようになりました。1.2年生の頃はよくこけてばかりでした。三年生になって、こけることが減りました。男女の全体で私は、副キャプテンになりました。内心「なんで私?私にできるのかな?」と思いました。親友に「何でうちなんやろ」と言うと「○○は三年間バスケやってきたからやと思うで」と言われました。その親友は授業の班も一年間一緒で口げんかした事もあります。その親友に助けられたことも何回もあります。全然うまくできなかったジグザグドリブルがうまく出来なくて、「○○なら出来るよ、頑張れ、一緒に頑張ろう」と親友や1つ下の後輩が声をかけてくれました。その言葉が凄く嬉しかったです。色んな友達や先生に出会って成長することができました。特別支援学校の高等部で経験をたくさんして学びました。たくさん心に残る思い出を作ることができました。心に残る思い出ばかりが今でもはっきりと残っています。友達に助けられたこともあります。友達、先生を通じて色んな事を学べた三年間でもあります。友達と先生といる時間は貴重な時間でした。毎日、友達と先生と話をするのが私にとって唯一の楽しみでした。話をしたりバスケ、筋トレをしてストレス発散になりました。三年間、楽しかった事などがあったけど、全部が私の宝物です。いつまでも大切な宝物は心の中に閉まっておきます。

 

卒業後

 特別支援学校高等部卒業後は、淀川区にある加島友愛会のLINKという所に1年と数か月通っていました。就労移行支援でお世話になりました。LINKでさまざまな訓練をしてから就職が決まりました。対人関係や立ち振る舞いの練習をしていました。就職した今も課題なので、継続中です。平成22年今から3年前に堺筋本町にある大阪障害者職業センターで重度判定を受けました。簡単に言うと適性検査みたいな感じです。色んな実習や面接を受けました。4回目の面接で今働いている吹田にある国立循環器研究病センターで就職が決まりました。働いてても色んな事があるけど、私にとって何が大切なのか就職してから気が付きました。今までいろんな事があったけど今までいろんな人に助けてもらってきたので、次は自分が助けてあげる人になりたいと気持ちがずっと大きかったので、頑張ってヘルパーの資格を取得しました。たとえ障がい、病気があるからといっても負けないようにこれからも自分らしく前を向いて頑張ります。何事にも最後まで努力して諦めないでプラス思考でポジティブに今の仕事を頑張って今まで育ててくれた両親に親孝行をする事です。夢は両親に親孝行しながら福祉の仕事をする事と好きな人ができたら結婚することです。今の将来の目標は料理を覚えて自立し一人暮らしをする事が目標です。家を出て一人で生活ができるように今から少しずつ練習をして将来に向けて一歩ずつ頑張っていきます。毎日たのしくすごせるようにこれからも努力して頑張っていきます。